研修旅行 (2009) 若狭

 当支部恒例の研修旅行は、昨年より一ヶ月ほど早い6月13日から14日にかけて、1泊2日で行いました。

 今年の研修旅行は、初日福井県小浜市で開催された「第三十五回北陸地区大会」に名古屋支部として史上初めて参加し、翌日は「松島」「宮島」と並んで日本三景の一つである「天橋立」を訪れ、西国28番札所の成相寺を参拝し、天橋立公園、文殊エリアを散策した後に、「自然と伝説が戯れる町」大江山の酒呑童子で有名な福知山市大江町まで足を伸ばす計画としました。

 研修旅行は雨に降られない」と言う例年のジンクスどおり今年も「梅雨の晴れ間」にめぐまれ、16人の会員を乗せたマイクロバスは名古屋駅太閤口を出発しました。途中、大垣ICで4人を乗せ、合わせて20人が小浜市を目指しました。

 若狭支部が主管支部として開催される「第三十五回北陸地区大会」は、小浜市でも歴史の古い「ホテルせくみ屋」で行われました。 このホテルはアメリカの大統領選挙中に現オバマ大統領を応援したことでも有名なホテルで、我々一行をオバマ大統領像が出迎えてくれました。 ここで現地集合の1名が合流し、名古屋支部としては総勢21名で大会に参加しました。 他の支部からも参加者が多数来られており、北陸三県の福井支部、石川支部、富山支部を始め、新潟支部、三重支部、京都支部、大阪支部、兵庫支部、姫路支部、岡山支部、南淡路支部、主管支部の若狭支部や我々名古屋支部を加へ参加者が約130名ほどの規模で大変盛況でした。

オバマ大統領像 第35回北陸地区大会 鑑賞会場
左:オバマ大統領像  右:第35回北陸地区大会 鑑賞会場

 若狭支部は昭和33年4月に若狭刀剣会として故永田八郎氏が発足させ、昭和39年4月に大阪支部、兵庫支部、金沢支部の肝煎りにより日本美術刀剣保存協会 若狭支部が誕生しました。 その頃から何れも故人となられましたが佐藤寒山氏、本間薫山氏、人間国宝の月山貞一氏、隅谷正峰氏らがよく来訪された地で日刀保とは非常に縁の深い土地柄です。

 若狭刀工の系譜は古くは応仁の頃家長、応永の頃 宗長(一説には来国長の子)に遡りその後、康正の頃相州三代目 広次子 冬広に至り幕末へとつづき、直系の方は現在も鉄工所を経営されております。

 若狭国の歴史は神話時代、古墳時代から続き平安期には京都、奈良の寺社がこの地に荘園を多く所有したため、京都に匹敵する寺社が多数建立され、仏像も多く残っております。 これらは「国宝めぐり」の観光バスで見る事が出来ます。

 小浜の歴史は武田氏の築城から始まり関が原以降の京極家(淀君の妹、お江の方が正妻)、江戸期は譜代の酒井家(大老酒井忠勝が藩祖)が幕末まで統治し、冬広は代々酒井家の庇護を受けました。 その酒井家繋がりで、埼玉県の川越市が姉妹都市、お祭りの獅子舞(雄2頭で雌を奪い合う)は酷似しています。

 我々名古屋支部は到着早々に受付を済ませ、今夜の宿泊の部屋割りを行った後には若狭支部にて準備していただいた昼食を取り、部屋で休養する間も惜しんで鑑賞会場や一本入札鑑定会場へと向かいました。 鑑賞会場には本部、支部から出品された名刀の数々が34口展示され、普段はなかなか見ることのできない「重要美術品」「特別重要刀剣」「重要刀剣」の数々を心行くまで鑑賞させて頂きました。 一本入札鑑定では一筋縄ではいかない非常に難しい作品が鑑定刀として出品され、皆さん頭を悩まされておられました。

 入札鑑定終了後には本部講師の久保恭子先生による鑑定刀の解説があり、入札者はその結果に一喜一憂しながら熱心に拝聴しておりました。 また鑑定刀の解説後には同じく久保恭子先生による出品刀の解説もあり、それぞれの出品刀について解りやすく解説していただきました。

札鑑定刀の講評と鑑賞刀の説明 懇親会場
左:札鑑定刀の講評と鑑賞刀の説明  右:懇親会場

 余談ですが、この鑑賞会場に使われた「乾山(ケンザン)の間」の「乾山」とは江戸時代の絵師、陶工である尾形乾山のことと思われます。 乾山は京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれ、兄は尾形光琳で、この雁金屋の創始者である乾山の曾祖母は、あの本阿弥光悦の姉であることを考えると、鑑賞刀の会場としては誠に相応しい所と思いました。

 解説が終わった後にはしばし休憩をし、温泉に入る人、部屋でくつろぐ人、思い思いの時間を過ごした後には3階「飛翔の間」で130名近くのほとんど全員参加による懇親会が開催されました。 懇親会ではまず内田若狭支部副支部長の開会宣言に始まり、清水支部長の主催者挨拶、来賓を代表して日刀保の中川総務課長と松崎小浜市長のご挨拶がありました。 他の来賓としては、谷口小浜市文化協会会長、国田若狭歴史民俗資料館館長も参加され、今回の主管支部である若狭支部の地域に於ける文化交流の深さが見て取れました。

 また懇親会途中で各支部参加者のご紹介もあり、我が名古屋支部が参加支部の中では一番人数の多い21名の参加でありました。 この懇親会で一本入札鑑定結果が発表され、あの難問の中で満点を取られた方がおられたのには驚きました。 勿論その方が名誉ある天位をとられましたが、このハイレベルの中で我が名古屋支部の加藤さんが80点で地位を頂き、同じく80点の小野さんは入札順で惜しくも次点でしたが、2人の受賞者が出たのは誇らしいことでした。

 懇親会終了後は場所を移し、名古屋支部恒例の鑑賞会「夜の部」が名古屋支部だけで催されました。 支部会員個別持参の名刀で、入札鑑定を行ったり持参者による解説があったりと、ここでも名刀を心行くまで鑑賞させていただきました。 早朝からのバスでの移動の疲れも見せぬまま、皆さん熱心に夜更けまで鑑賞しておりました。

名古屋支部だけで開催 鑑賞会「夜の部」
名古屋支部だけで開催 鑑賞会「夜の部」

 2日目はオバマ大統領像に別れを告げ、名古屋支部19名で「天橋立」を目指しました。 「天橋立」は、宮城県の「松島」、広島県の「厳島(宮島)」と並んで日本三景の一つで、約7000本の松林が続く長さ3.2Km、幅20mから付根が170mほどの砂嘴(さし)です。 人が逆さになって見ると、天に架かる橋のように見えることからこの名がついたとのことで、北側の傘松公園から「股のぞき」で見るのが名称の由来でもあり、伝統的に美しいとされています。(出典:ウィキペディア・フリー百科事典)

 また日本三景の由来は、江戸時代前期の1643年(寛永20年)に、儒学者・林春斎がその著書『日本国事跡考』において、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳興、丹後天橋立、安芸厳島為三処奇観」と書き記した。 これを端緒に「日本三景」という括りが始まったとされています。

 その後、1689年(元禄2年)に儒学者・貝原益軒が、その著書『己巳紀行(きしきこう)』(丹波丹後若狭紀行)において、天橋立を旅したくだりで天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」と記していることから、これが「日本三景」という言葉の文献的な初出とされ、貝原が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られた括りであったと推定されています。(出典:ウィキペディア・フリー百科事典)

成相寺展望台からの天橋立
成相寺展望台からの天橋立

 小浜を出発した我々一行は、上述の傘松公園よりもさらに眺めのいい成相寺展望台を目指しました。 この成相寺は、開基は慶雲元年(704年)と言われ、願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けられたお寺で、その展望台は傘松公園よりもさらに上にあるため、天橋立が一望できます。 宗派は真言宗で、西国第二十八番札所にもなっているとのことです。成相寺の展望台からの「天橋立」の眺望を満喫して本堂にお参りした後には、文殊エリアに向かいました。

成相山パノラマ展望台 西国28番札所 成相寺本堂
左:成相山パノラマ展望台  右:西国28番札所 成相寺本堂

 文殊エリアでは文殊堂で有名な智恩寺を訪れ、文殊堂や多宝塔を参拝し、知恵の輪灯篭も見学しました。また偶然にも廻旋橋が回転するのも見ることができました。 ただちょっと残念だったのは、天橋立の散策が時間の関係であまりできず、大天橋を渡って少ししか行けなかったことでした。機会があったらまた来たいと思います。

 文殊エリアで昼食も済ませ、我々一行は一路、「自然と伝説が戯れる町」で有名な福知山市大江町まで足を伸ばしました。 ここは小泉理事ご推薦の「鬼の交流博物館」や「元伊勢内宮」と言われている皇大神社があり、我々一行も楽しみにバスの人となりました。

智恩寺 文殊堂
智恩寺 文殊堂

 宮津市の海沿いの道から山の道へ入り、結構険しい山道を進むと、目指す「鬼の交流博物館」が見えてきました。 ここには鬼とは何者かをさぐるコーナーがあり、全国各地の伝統芸能、世界の鬼面、鬼のわら人形、版画、びょうぶ等 全国の鬼にまつわる物を展示し、鬼が何者かについて考える所だそうです。

 また大江山の鬼退治伝説にまつわる絵巻、南北朝時代に製作された鬼退治を語る最古の絵画資料の複製や写真を展示し、日本における鬼瓦の推移も見ることができます。 飛鳥時代から現代までの全国の在銘鬼面瓦の実物、複製を時代別に展示してあります。博物館前の日本最大の鬼瓦は圧巻でした。

大江山酒呑童子の里「鬼の交流博物館」 大江山酒呑童子の里「鬼の交流博物館」
大江山酒呑童子の里「鬼の交流博物館」

 鬼の博物館を後にしてさらに山道を行くと、「元伊勢内宮」と言われている皇大神社に着きます。 ここはHPによると、「第十代崇神天皇39年(西暦紀元前59年)に、「別に大宮地を求め鎮め祀れ」との皇大神の御教えに従い、永久にお祀りする聖地を求め、まず但波(丹波)へ御遷幸、その御由緒によりこの神社創建されたと伝えられています。 その後崇神天皇26年(西暦紀元前4年)に、伊勢の五十鈴川上の聖地(いまの伊勢の神宮)に常永遠にお鎮まりになったそうです。

 しかし、天照皇大神の御神得を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続いてこの神社を内宮の元の宮として「元伊勢内宮」あるいは「元伊勢皇大神宮」「大神宮さん」などと呼び親しみ、今に至るも庶民の篤い信仰が続いている、とのことです。 特筆すべきは鳥居の形状で、杉の木を皮を剥がないまま組まれています。 これは黒木の鳥居と呼ばれる形で、全国的にも数例しか見られない大変珍しい形とのことです。 ここは参道入り口から社殿までは結構険しい階段があり、普段の運動不足がまさに思い知らされる場所でした。 とは言っても境内は非常に厳かな雰囲気でり、社殿にお参りすることで普段不摂生なこの身も心なしか清らかになったような気分でした。

元伊勢内宮
元伊勢内宮

 さて、これでこのたびの研修旅行の予定はすべて終了しました。 帰りは山道を抜けて舞鶴大江から小浜西まで高速に乗り、国道27号線を通り、前日通った敦賀からの北陸道を南下して米原から名神へと一気に名古屋を目指しました。 バスの中では時代劇のDVDを見ながら時間をつぶし、途中羽島近辺で事故渋滞に遭遇して一般道に降りることを余儀なくされたものの、ほぼ予定通り全員無事で名古屋駅太閤口に到着しました。

今回も沢山の思い出をお土産に、今までにも増して素晴らしい研修旅行になりました。

名古屋支部 野村 泰久