第一報 古代刀の「研磨刀剣」と日本刀について

執筆者 : 牧野 克昭


 近年になって日本刀の研師により一部研ぎの可能な古代刀が研がれ、綺麗な地肌と刃文が見られるようになり、日本刀と古代刀を比較することが可能となった。 このことから日本刀の「古刀の五箇伝」が、なぜ存在するのかということを、古墳時代(5〜7世紀)の直刀と比較して考えたい。(ただし、古墳の築造時期と副葬品の直刀の製作時期がずれることはある程度考えられる)

「5世紀後半頃」
奈良県石上神宮の鉄大刀 ☆1
地肌は、大杢目肌が入り柔らか味がある。焼入れはなく刃文はまったく見られない。自然放冷と思われる。純度の高い良質の鋼でできていることが判明している。

全長102p、刃長82.2p、茎長19.8p

「5世紀後半頃」
神奈川県御領原古墳の鉄大刀 ☆1
地肌は、全体に小杢目肌が入り、鋒の刃文は小沸が付き大丸に焼き込む。

全長90.2p、刃長83.5p、茎長6.7p欠

「6世紀前半頃」
宮崎県小林市大萩地下式横穴墓群
地下式横穴墓から出土する鉄刀剣は、錆に覆われているが錆の中の鉄の残存状態が良いものが多い。 平造り、切刃造り共に地肌は全体的に大小の板目があらわれ、地鉄はねっとりして柔らかく肌立たたない。 刃文は、細直刃で刃縁に小沸付き沈みごころとなる。 切刃造りの倭風大刀には、5世紀後半から6世紀頃に朝鮮半島より舶載された円頭大刀や環頭大刀の刀身と同様な切刃造りがみられ、渡来の技術を取入れて造られたもので、他の地域において同じような倭風大刀は見られない。 刀身の刃の部分は折返し鍛錬による幾層もの柾目肌が見られ地刃ともに地肌が美しい。

上 : 平造り大刀 下 : 切刃造り大刀
左 : 平造り大刀 右 : 切刃造り大刀
参考日本刀 : 太刀(重要文化財) 豊後国行平作(鎌倉時代前期) ☆2
(宮崎県西都市歴史民族資料館展示)

「6世紀前半頃」
埼玉県城戸野古墳の鉄大刀 ☆1
地肌は、全体的に柾目に流れ、その間に密集した地沸と地景がある。 刀身の刃文は、互の目を交えのたれ乱れになり、腰元まで延びて焼落しとなる。 鋒の刃文は、大丸に返り深く焼き込む。

全長87.8p、刃長72.2p、茎長15.6p
参考日本刀 : 短刀(国宝) 大和国保昌貞吉(鎌倉時代末期) ☆2

「6世紀前半頃」
埼玉県行田市埼玉将軍山古墳の鉄大刀 ☆1
地肌は、全体に大板目に板目と杢目肌が入り肌立つ。 刀身の刃文は、のたれに互の目が交じり、沸深く荒沸つく。 鋒の刃文は、のたれ込み小丸に浅く返る。 刀身の部分の鎬造りは最古級である。

全長99.8p、刃長80.7p、茎長19.1p
参考日本刀 : 短刀 志津兼氏(南北朝時代初期) ☆3

「6世紀後半頃」
群馬県前橋市総社町愛宕山古墳の鉄大刀地肌は、全体に大板目肌で、板目の間に地景が入り肌立ち映り立つ。 刀身の刃文は大小のたれが交じり、沸深く荒沸つき刃中に稲妻や金筋が入る。鋒の刃文は、乱れ込み尖りごころに浅く返る。

全長69.4p、刃長60.2p、茎長9.2p
参考日本刀 : 太刀(重要文化財)相州正宗(鎌倉時代末期) ☆3

「6世紀後半頃」
群馬県前橋市総社町二子山古墳の鉄大刀 ☆1
地肌は、全体に板目に杢目肌が入り肌立ち、大小の沸がよく働き、各所に渦巻肌があり映り立つ。鎬地には、綾杉状の大肌がある。 刀身の刃文は直刃調にのたれを交えて、沸深く小沸付き金筋が入り、腰元で焼き落とす。鋒の刃文は、乱れ込み尖りごころに浅く返る。 刀身の部分は鎬造りである。

全長111.6p、刃長91.1p、茎長20.5p
参考日本刀 : 短刀(重要美術品)越中国則重(鎌倉時代末期) ☆3

「7世紀初頭頃」
東京都大蔵石井戸南横穴出土の鉄大刀 ☆1 切刃造り。地肌は、全体的に大小の板目肌が入り、地沸がよくつき地景が入る。 刀身の刃文は、のたれと乱れ刃を交えて焼かれている。 鋒の刃文は、のたれ込み返る。

全長54.6p、刃長48.1p、茎長6.5p欠

「7世紀頃」
島根県安来市植田町林原かわらけ谷横穴墓出土 横穴墓から出土する鉄刀剣は、錆に覆われているが、錆の中の鉄の残存状態が良いものが多い。 たたら製鉄でできた硬鋼(玉鋼)を用いて、折返し鍛錬により造られたものと思われ、刀身の地肌と刃文が精美に輝き美しい。 切刃造りの刀身の地肌は、小板目に板目まじり細かく地景はいる。 刃文は、細直刃で小沸付きカマス鋒まで入り焼詰になる。

島根県立古代出雲歴史博物館展示の装飾大刀 ☆4
日本刀の研師により研がれた刀身
参考日本刀 : 脇指(重要文化財)山城国来国光(鎌倉時代末期) ☆2

 上記の地鉄(地肌)と鍛錬方法の時代ごとの移り変わりについて考察する。 5世紀中期頃以前:この時代の前までは、奈良県石上神宮の鉄大刀にみられるように、大肌がまじりの柔らか味のある地鉄で刃文の焼入れがない。 このことは、鍛錬回数を多くしなくても、不純物が少なく良質な地鉄(地肌)が造れるような鋼を入手することができたと考えられる。 (舶載品の鉄廷は炭素量が約0.1〜0.7%:大和6号墳出土鉄廷資料)

 そして、硬鋼の刃鉄(鋼)と軟鋼の地鉄部分を組み合わせ、ずぶ焼入れや自然放冷による焼入れ方法と思われる。 時代的にはまだ短甲(たんこう)で、徒歩による直刀での「刺撃(しげき)」よる戦いであったと思われ、横からの大刀による打ち込みには強度不足であったと考えられる。

 5世紀中期頃以後:この時代の後からは、挂甲(けいこう)と騎馬が朝鮮半島より入ってきて、騎馬との戦いにおいて「斬撃(ざんげき)」するときの強度を高める必要性が生じたと思われ、新しい鍛造技術も入ってきたと考えられる。 特に、北関東と越前から出土する直刀の鉄大刀にみられるように、板目肌、杢目肌、柾目肌等のいろいろな地鉄(地肌)の出現や、直刃、のたれ刃、乱れ刃、互の目刃等の粘土(ねばつち)を使った土取り焼入れによる刃文の出現がある。 このような変化にとんだ多様な地肌や刃文は、『日本書紀』の記述にある在来の技術による倭鍛冶(やまとかぬち)と渡来集団の韓鍛冶(からかぬち)との新旧の技術の融合によるものかもしれない。

 独自のたたら製鉄技術による硬鋼(玉鋼)のものか、または輸入品による炭素量の多い銑鉄を材料として精錬(左下法)したものなのかは憶測しかできないが、鍛造の鍛錬回数を多くして強靭さを増し、炭素量を調節し、硬い焼入れのできる炭素鋼を造りだし、地刃の皮鉄部分の硬鋼と芯鉄部分の軟鋼を組合せることにより靱性を増して、大刀による横からの打ち込みに対して、鉄大刀の刀身を折れにくくするような日本刀に近い技術を生み出したものと考えられる。 そのためには、刀身全体に焼が入って折れやすくなるのを防ぐために、地鉄部分には焼が入らないようにし、刃の部分のみに焼入れが出来るように粘土(ねばつち)を使った土取りによる刃文の焼入れ方法を考えだし、高い温度での刃文の焼入れを可能にして、「硬くて強く・折れず・曲がらず・よく切れる」という斬撃力を増加させた。 そして地鉄部分の地肌の働きや沸や匂いの働きによる美しい刃文を考えだし、美術品としての日本刀へと繋がっているように思える。 日本刀の最古刀「平安末期・鎌倉初期」時代の太刀の錆びた鎚目・鑢目の残る茎(なかご)から、研磨された刀身の美しい働きの地肌・刃文を見るたびに、武器を越えた何とも言えない崇高な感動を受けます。 また、古墳時代の副葬された古代刀(倭風大刀)の錆に覆われ朽ちた刀身の一部が研磨された「研磨刀剣」の地肌・刃文からも、日本刀が完成される以前の古代刀工の作刀にかける執念のようなものが感じられる。

 5世紀後半の埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の近くから出土した携帯用の穴があいた砥石(長さ8.2センチ)が発見された。 研師の藤代興里先生の研究により京都丹波地方でわずかに採掘される天然砥石(仕上に使用)と確認された。被葬者が鉄剣を錆びないように大事に手入れをしていたと思うと、日本刀を研磨して常に美しく保とうとする精神が古代から現在に至るまで繋がっているように思える。

注記)
「たち」の文字は、古代刀(大刀)・日本刀(太刀)で表記。
「倭風大刀」は、平造りの直刀で、刃区(関)のみあり、鋒はフクラの付くもの。

『参考文献』
☆1『古代刀と鉄の化学』石井昌國・佐々木捻
☆2『名物刀剣・宝物の日本』徳川美術館図録
☆3『清麿展』佐野美術館図録
☆4『古代出雲歴史博物館展示ガイド』
  5『鉄と日本刀』天野昭次
  6『国宝金錯銘鉄剣復元製作報告書』2014埼玉県立歴史と民俗の博物館