第15話 人々の縁と刀剣

執筆者 : 林 茂一
今回の『第十五話』は「人々の縁と刀剣」と題して、名古屋市在住の林茂一さんにお願いしました。 林会員は長年刀の趣味を通じて多くの方々と交流を持たれ数多くの出会いを持たれて参りました。 今回はその結果、縁有って入手された、脇差 陸奥守大道作 について執筆いただきました。

 私は現在65歳になり、日刀保 名古屋支部に在籍して十数年になります。仕事は大工職人であり、一生現役で仕事をやり続けたいと思っております。  一般の人々の定年の年を過ぎ今迄65年の人生を振り返ってみて、日頃心に強く感じることがあります。 またここ十数年来、日頃から大切にしている言葉があります。 それは「縁」つまり 出会い、ゆかり、人と人との繋がり、物との因縁、もろもろ…物事は全て縁に繋がる。ということです。

 私が名古屋に在住して三十数年になり、仕事 又 趣味を通じて出会った人々は、田舎で過ごした時より長くなり、それらの人々が何かしらの縁で結ばれているということでしょう。趣味の刀剣の会でもこの縁という言葉に繋がる事が多くあります。 私にとって刀剣の世界で特に二人の方々に不思議な縁で結ばれているように感じます。

 一人目は、現在 熱田神宮宝物館学芸員の「福井 款彦」氏です。 名古屋に在住するようになり、初詣に行った時、参拝をすまし宝物館へ足を運び多くの刀を拝見し、その美しさに心魅かれた事です。 話は前後しますが私の故郷は、滋賀県北部、木之本という田舎町です。 ここは戦国時代、羽柴秀吉と柴田勝家との戦いで有名な「賤ヶ岳の戦い」の麓の町です。私の家は分家で、本家には昔から大小一対と軍刀が二本あり、子供の頃から刀を見ることがあり、その不思議な力に引き込まれる事を幼心に感じておりました。

 神宮で刀を拝見して改めて刀の美しさに感動し、帰り際にふと目に留まる一枚の案内状がありました。 その内容は「関の鍛錬場の見学案内」で定員60人募集、是非参加したいと思いましたが、熱田神宮は正月3が日で230万人を超える人々が参拝に訪れ、また多くの人々が宝物館を見学され、すでに定員に達しているものと思い諦めていましたが、数日しても諦めきれず、神宮に電話で確認してみたところ、残席が2名分あるとのことで、すぐさま申し込みをいたしました。 無事見学をさせてもらって数か月が過ぎた頃、神宮の福井氏から突然手紙を頂き「刀を少し勉強しませんか?」との案内で、刀にも勉強することがあると初めて知りびっくりしました。これが福井氏との縁の始まりで、それ以来二十数年お付き合いをさせて貰っています。福井氏の縁のおかげで、いろいろな刀と出会い、また色々な経験をさせて貰っております。

 約二十年ほど前、東京九段の靖国神社を訪れることがありました。 靖国神社は戦争戦没者を奉る神社で、私の叔父もビルマで戦死し靖国に祀られており、ここを訪れることは感慨深いものがありました。

 福井氏のおかげで正式参拝の機会を得ました。 正式参拝とは大臣、閣僚が参拝されている方法と同じで、まず待合室に通され、貴賓室でお茶と落雁をいただき、正殿参拝をさせて貰いました。 その時待合室に多くの花嫁人形が奉納されており、不思議に思い係員に尋ねると、先の大戦で十九や二十で多くの若者が特攻ではかなく戦死して行った為その後親御さんたちが、結婚もせず、所帯も持たず戦死して行った子供の為に、花嫁人形を奉納されたということでした。

 その話を聞いた時私は一筋の涙を禁じ得ませんでした。 特攻といえば「桜」、その花のはかなさと重なり、それ以来桜の花を見るたび心が痛みます。参拝後、博物館で奉納品を拝見していた時、展示品の中でひときわ目立つ刀がありよく見ていると、職員の方が出しましょうか?と言われ、びっくりしました。 その場では一般の方もおられるので、別室に案内され拝見する事が出来ました。

伝 「正宗」靖国神社にて
伝 「正宗」靖国神社にて

 この刀は 伝 「正宗」ということで、これほど身幅が広いものは初めて手にしました。 立会人として藤代興里氏がみえ、藤代氏は靖国の刀のお手入れをされていることで、この時初めて興里氏にお会いしました。 現在、藤代興里先生は名古屋支部の講師として年に数回ご指導願っておりますが、これも何かの縁といわざるをえません。

 次に二人目の方は、「伊藤忠雄」氏で、私の刀の師であり、名古屋での父でもあり兄とも思い敬愛しておりましたが、昨年亡くなられ、大変残念に思っております。 私は伊藤氏から、刀の見方、作法を一から指導を受け、初めは何も解からず、いろいろな刀を手に取って拝見しながら教えて頂いた事など良い思い出です。

 指導を受け数年経った時、林さん一本持ってみないか?そうすれば又刀の見方が変わるから…といわれ、この時紹介していただいた刀が又不思議な縁があり、伊藤氏の自宅で拵え付の刀を拝見した時、柄の縁の部分に金と赤銅の家紋がはいており、その家紋が「丸に立ち沢瀉」で、なんと私の家の家紋と同じでした。 この刀は私の手元に来るべきして来ることになっていた縁があり、私は一もなく手元に置くこととして今も大切にしており、最初に持つこととなった刀が不思議な縁で結ばれていたのです。

沢瀉(オモガタ)紋 拵
沢瀉(オモガタ)紋 拵

 伊藤氏との一番の思い出は、今は無くなりましたが東京巣鴨にありました日本刀装具美術館で、伊藤氏と数人で訪れた時、美術館理事長の三宅氏は親交がある名古屋の伊藤さんが見えるのならこの刀を用意してくださいと準備していただいた短刀「国宝 太閤左文字」を見ることが出来ました。 私も、重文・重美の刀は時にして手に取って拝見する事もありますが、国宝の刀は初めてで大変緊張したことを覚えています。 一般の方でいくら刀好きの人でも国宝となるとなかなか手に取って拝見する事は難しいでしょう。 でも伊藤氏のおかげで刀の勉強を始めて数年しか経っていない私が手にして拝見できた事は、私の唯一の自慢できることです。 館長の池田氏の話から、この左文字の沸の冴えと色が非常に良いとの事でしたが、その時は色の良さは解りかねてており自分の勉強不足を痛感した次第です。

 その後、毎月のようにこの美術館を訪れいろいろな刀を拝見することが出来、ある時は秋田佐竹藩伝来の長船長光を拝見した時、俗に「匂い口が締まる」という表現がありますが、この長光は直刃で匂い口が良く締まり一本の輝く線になっており、伊藤氏からこれが匂い口が締まる名品で、しっかり覚えておくようにと教えられました。

 この美術館を訪れるうちに職員の方とも顔馴染になり、又事務局長の水田氏とも親しくさせて貰い、お茶までご馳走になることとなり、事務所で小道具の名品を数々見せてもらい、刀装具に付いても勉強することが出来ました。 私が家内に美術館でお茶まで出してもらっている話をしますと、そんなことがあるの? とびっくりする位ここには通い詰めたものです。

 今はこの美術館も無くなり、寂しい限りです。 伊藤氏にはこのように十数年、勉強会を通じいろいろご指導を受けた次第です。伊藤氏が体調を崩され勉強会を続けられなくなり、日刀保名古屋支部への入会を口添えしてもらい現在に至っています。

陸奥守大道
陸奥守大道

 私の愛刀に、伊藤氏から受け継いだ脇差があります。 この刀は「美濃刀大鑑」所載の陸奥守大道作・所持者名、大縄賢物義辰という脇差です。

 大縄賢物義辰は、常陸佐竹義重の側近で義重の次子、義広が会津の蘆名氏を継いだ時これに従って会津に入る(天正15年)、天正17年蘆名氏は伊達氏と戦って敗れ、義広の常陸帰還に同行、後佐竹氏の秋田移封に伴い秋田に移る。

 この脇差を見て思うことは、私の前何人かの方がこの脇差を大切に伝えられて来たかという事、つまり大道が作刀した天正年間から現在まで四百年以上の長き年月を、何人の人の手で守られてきたかと云う事です。 仮に一人三十年としても十数人が受け継いで、現在私の手元にある訳です。 日本刀という世界に類をみない素晴らしい美術品を大切にし、後世に伝えて行かねばならないか。 現在目の前にある日本刀を大切しなければ、私以前の持ち主に対し申し訳ない気がしております。

刀剣会にて
刀剣会にて

 このような気持ちを持って刀に接するように教えて貰ったのが伊藤忠雄氏です。 このように人々との出会い、刀との出会いすべて、なにかしら目に見えない縁というもので繋がっており、これからもいろんな縁を大切に していきたいものです。 最後に、今迄私と縁を結びご指導くださった方々に厚く御礼申し上げると共にこれからもよろしくご指導くださることをお願いする次第です。

ありがとうございました。

名古屋支部 林 茂一